ソーバーキュリアスとは?!
「ソーバーキュリアス」にはっきりとした定義はありません。
なので・・・
「時々、ちょっとお酒をたしなむことがあっても、それはソーバーキュリアスと言えるのでしょう?」と聞かれることがたまにあります。
しかし、私の考えるソーバーキュリアスとは、あえて一滴も飲まないことを選択することです。
そして、今の私が確信しているのが、自分のお酒の飲み方に少しでも疑問を持った人にとっては、アルコールは一滴も飲まないのが最良だということです。
かつて、「一滴もアルコールを口にしない」というようなライフスタイルについて耳にしたときには、「なんてストイックな!」「そこまでやらなくてもいいじゃないか!」と思ったものです。
しかし、一度アルコールから離れてみて思うことは、
ということでした。
Contents
ソーバーキュリアスの「解像度」を正しく定義する
最近、日本でも「ソーバーキュリアス」という言葉が広まり、ライフスタイルの選択肢として注目されるようになりました。
しかし、その言葉が使われる場面を眺めていると、どこか「ファッションとしての禁酒」のような、軽やかで曖昧なニュアンスが含まれていることに違和感を覚えることがあります。
例えば、「平日は飲まないようにしている」「乾杯の1杯だけは付き合う」「週末は自分へのご褒美として楽しむ」といった、いわゆる節酒や減酒の延長線上でこの言葉が使われるケースです。
もちろん、お酒との距離を置こうとする姿勢そのものは素晴らしいことですが、私がここで提唱し、実践しているソーバーキュリアスは、それらとは明確に一線を画すものです。
私が選んだのは、曖昧な妥協を一切排除した「完全なるゼロ」の境地です。
それは、単に習慣を修正することではなく、自らの人生からアルコールという不純物を1滴残らず排除し、100%のしらふで生きるという強い意志の表明なのです。
「たまには飲んでもいいのではないか」という周囲の甘い誘いや、自分自身の中に芽生える小さな甘えを、私はあえて退けます。
なぜなら、100%のゼロと、0.1%の妥協の間には、数字以上の圧倒的な深淵が横たわっているからです。
その「0.1%」を許容した瞬間に、私が手に入れた「人生の高解像度な世界」は、音を立てて崩れ始めてしまう・・・だから、1滴ものまないのです。
「0」と「0.1」の間に横たわる、決して越えられない壁
最近は、嘘とバレ始めているかもしれませんが、未だ世の中には「適量なら健康にいい」「少しのアルコールはリラックス効果がある」という言説もあるにはあります。
しかし、真に知的な人生を追求しようとするならば、この「適量」という言葉がいかに欺瞞に満ちたものであるかに気づくはずです。
アルコールは化学物質であり、体内に入ったその瞬間から、私たちの脳に直接的な干渉を始めます。
たとえそれがグラス半分のワインであっても、脳の最も高度な機能を司る前頭葉には、静かな霧がかかり始めます。
この「わずかな麻痺」を、多くの人はリラックスと呼びますが、私はそれを「機能の劣化」と呼びます。
1滴でもアルコールを入れるということは、自分の脳という精密なシステムの主導権を、外部の物質に少しだけ明け渡すことに他なりません。
判断力が数ミリ秒遅れ、思考の鮮やかさがわずかに失われ、自分を律する理性のフィルターが薄くなるのです。
その状態を、私は自分の人生に1ミリも介在させたくないのです。
また、「今日は飲んでもいいか」「1杯だけでやめられるか」といった脳内交渉は、私たちの貴重な意志力を驚くほど消耗させます。
中途半端に飲むことを許容している状態は、常に「飲むか飲まないか」という選択を自分に強いることになり、それが大きなストレスとなります。
しかし、最初から「0」と決めていれば、そこには一切の交渉も迷いも生まれません。
この「決断の自動化」によって、脳のリソースをすべてクリエイティブな活動や、真に楽しむべき事象に注ぎ込めるようになります。
0.1%の妥協を捨て、完全なゼロを選ぶことは、実は自分自身を最も楽にし、自由にするための最強の戦略なのです。
脳のパフォーマンスを最大化させる「戦略的しらふ」
私がソーバーキュリアスを貫く最大の理由は、脳のパフォーマンスを極限まで最適化し、常にフルスロットルで思考し続けることにあります。
アルコールがもたらす最大の損失は、飲んでいる時間そのものよりも、その後の「脳の機能低下」にあります。
たとえ深酒をして二日酔いにならなかったとしても、体内に微量のアルコールやその代謝産物が残っている限り、脳には目に見えない霧(ブレインフォグ)がかかり続けます。
100%のしらふを貫く日々の中で私が体験しているのは、鏡のように澄み切った思考の海です。
朝起きたその瞬間から、脳はクリアな状態で起動し、高度な知的活動を、驚くほどのスピードで処理してくれます。
お酒を飲んでいた頃には決して到達できなかった、この「圧倒的な知的生産性」の快感を知ってしまうと、もはやお酒で脳を麻痺させる時間は、あまりにもコストパフォーマンスの悪い、知性の浪費にしか思えなくなりました。
また、このクリアな状態を維持することで、24時間をまるごと自分の支配下に置くことができます。
お酒に人生を「溶かす」時間は、単なる空白ではなく、自己研鑽の機会を奪う損失です。
私は、自分の時間を1分1秒たりとも、アルコールによる倦怠感や思考停止のために差し出したくはありません。
常に最新の状態にアップデートされた脳を持ち、何に対しても即座に、かつ深い解像度で反応できる自分でいること。
このストイックなメンテナンスこそが、大人の知性を支える唯一の基盤であり、チャラい妥協を繰り返す人々には決して見ることのできない景色を見せてくれるのです。
感性の「純化」と、高解像度な体験の追求
「お酒がないと人生の楽しみが減る」という考え方は、感性がアルコールによって麻痺しているがゆえの誤解に過ぎません。
実際には、お酒を完全に排除した方が、世界はより鮮やかで、深い感動に満ちたものとして立ち上がってきます。
私はこれを、人生の「高解像度化」と呼んでいます。
例えば、舞台芸術や音楽を鑑賞するとき、100%のしらふで対峙する作品は、かつてないほどの強度で脳に直接訴えかけてきます。
役者のわずかな呼吸、舞台装置の繊細な意図、音符の隙間に込められた感情。
それらをアルコールというフィルターを通さず、生のままの感性で受け止めると、そのときに得られる震えるような感動は、お酒によって引き起こされた「偽物の高揚感」とは比較になりません。
麻痺した心で得られる安っぽい快楽ではなく、澄み切った心で受け止める純粋な感動こそが、真の文化的な喜びなのです。
また、自分の感情をアルコールで「加工」しないことも、私にとっては非常に重要です。
悲しいとき、あるいは辛いときにお酒に逃げれば、その感情は一時的にぼやけますが、根本的な解決にはなりません。
一方で、嬉しいときにお酒でその喜びを増幅させることも、どこか自分を騙しているような空虚さが残ります。
私は、どのような感情であっても、それをそのままの形で受け止め、咀嚼し、自分の血肉にしたいと考えています。
1滴も飲まないということは、自分の人生に起きるすべての出来事を、誤魔化さずに直視するという「強さ」の表明でもあります。麻痺していない心で世界を味わい尽くすことこそ、人間に許された最高の贅沢ではないでしょうか。
「NO」という美学
現代社会において、お酒はコミュニケーションの円滑油として市民権を得ています。
しかし、私はあえてそこに疑問を投げかけます。
お酒がなければ深い会話ができない、あるいは楽しめないという関係性は、そもそも非常に脆いものと言わざるを得ません。
私は、しらふであっても、いや、しらふだからこそできる、質の高い対話と関係性を重視しています。
世間の同調圧力に屈して「とりあえずビール」と口にするのは簡単です。
しかし、周囲が当然のようにグラスを交わす中で、「私は1滴も飲みません」と断言することは、自らの価値観を確立している証となります。
これは、単なる習慣の違いではなく、自らの身体と精神を最高の状態に保つために、自律的に「NO」を突きつけるという、表明なのです。
他人の基準に流されず、自分の人生の美学を貫くその姿勢こそが、結果として周囲からの信頼を生み、自分自身への深い誇りへと繋がっていきます。
お酒を飲むのが当たり前の社会で、しらふであることを誇り、その圧倒的なパフォーマンスで結果を出していく、その姿は、周囲から見れば冷徹なほどのストイックさに映るかもしれませんが、私にとってはそれこそが、知的に成熟した大人のあるべき姿だと考えています。
お酒という補助輪を捨て、自らの足で、かつてないスピードで人生を駆け抜けること、その快感を知る人こそが、これからの時代をリードしていくのだと確信しています。
まとめ・濁りのない瞳で、人生を謳歌するために
私が「1滴も飲まない」という選択を貫くのは、お酒を恐れているからでも、過去の失敗を悔いているからでもありません。
ただ単に、お酒のない世界が、お酒のある世界よりも圧倒的に美しく、刺激的で、可能性に満ちていることを知ってしまったからです。
ソーバーキュリアスは、禁欲的な苦行ではありません。
それは、人生の質を極限まで高めようとする、極めてポジティブな「投資」です。
お酒というノイズを完全にカットしたとき、あなたの瞳は澄み渡り、脳は冴え渡り、これまで見落としていた人生の機微を捉えることができるようになるでしょう。
「たまには飲む」という妥協の道を捨て去り、100%のしらふという荒野に立ったとき、あなたは初めて、自分という存在が持つ真のポテンシャルを目の当たりにすることになります。
私はこれからも、この濁りのない視界を持って、自らの人生を切り拓いていきます。
お酒のグラスの底には決して沈んでいなかった、本物の輝きを求めて!
この「100%しらふ」という究極の自由を、もしあなたが手に入れたいと願うなら、その瞬間からあなたの人生は、かつてないほどの高解像度で動き始めるはずです。