ソーバーキュリアスライフ

「飲みすぎてしまう理由」を自分に聞いてみた!

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私はお酒を飲み始めた二十歳の時には、早々に問題のある飲み方をしており、「お酒を飲みすぎるのをどうにかしないといけない!」と思っていました。

それから20年以上、「お酒とうまく付き合う方法があるはず!」と、その方法を模索し、結局40代半ばで、完全にお酒を飲まない生活に移行しました。

自分へのツッコミですが、「さっさとお酒やめてればよかったのに!」と本当に思います。

この記事では、「日ごろわかっているようで実はわかっていない自分の気持ち」を掘り下げた結果をシェアしています。

幸せな人は飲みすぎたりしない、という仮説

飲みすぎた後は、必ず後悔します。

飲みすぎた後に後悔しない人なんているのでしょうか?

少なくとも私が聞いた範囲では、飲みすぎて気分が悪くなったり、記憶をなくしてしまった後に、後悔していない人はいません。

では、なぜ後悔するぐらいなら、最初から節制して飲むことができないのでしょうか?

誰かに頭を固定されて、グラスを無理やり口につけられたりしない限り、お酒を飲むという選択をしているのは、まぎれもない「自分」です。

このように、自分の意志で飲んでおり、毎回「今日はお酒の味を楽しめる程度にたしなもう」と思っているにもかかわらず、ほとんどの場合、飲みすぎてしまうのは不思議です。

・・・・ですから、私は、何度も節酒や禁酒に失敗した後に、ある仮説を立ててみました。

それは、目の前にある現実を納得して受け入れている時は、人は決して飲みすぎたりしない、という仮説です。

逆に言うと、目の前の現実が受け入れられない、そこから逃げたい、と思っているときに、人は飲みすぎてしまうのではないか、ということです。

私は「陽気な酔っ払い」のはず

私は成人してから40代半ばまで、必ず週末になるとお酒を飲んでいました。

お酒を一緒に楽しむ仲間もいました。

ワインについては、ワインサロンに通って勉強もしました。

海外旅行に行くと、かならずその国のワイナリーを訪れていましたし、酒文化に造詣が深いつもりでした。

しかし、飲みだすとかなりの確率で飲みすぎの域まで達し、ブラックアウト(記憶がなくなってしまうこと)もしばしばありました。

・・・・そういうわけなので、酒文化に造詣が深い知識人のつもりが、実は単なる不幸せな人だったのかもしれません。

言語化の威力

これまでは、よって記憶を無くして最悪の気分になり、二度とお酒を飲まないと誓うものの、後日同席していた人たちから「あなたは陽気な酔っ払いだから問題ないよ!」と笑い飛ばされているうちに、「ちょっとならいいよね?」という気持ちが芽生え、そしてまた飲みすぎてしまう!という繰り返しでした。

若いうちは、どんなに落ち込んで反省しても、「体力」があるので、まあいいか!とすぐに開き直れたのです。

ところが、40代にもなると、飲みすぎた後は数日間身体がだるくて仕方がない、という状況が続きました。

慢性的に身体が言うことをきかない状態は、さすがに「まずい」と思い、本気で禁酒を考えるに至りました。

そして、決定打となったのが、自分の気持ちを「言語化」することだったのです。

自分をごまかし続けていた私

飲んでいるときには、自分の気持ちを書き出す、ということはできません。

誰かと一緒に飲んでいれば、メモをとりながら会話をしたり飲んだりはほぼ不可能ですし、仮に一人で飲んでいたとしても、酔いが進むにつれて「論理的思考」は不可能になります。

ですから、一番ベストなのは、「酔いがさめて後悔している真っ最中」に、自分の気持ちを言語化することです。

また、飲みすぎて後悔した後ではなくても、酔っていないときに改めて自分と向き合うのももちろんいいでしょう。

私の場合は、その両方を行って、最終的に浮かび上がってきた事実がありました。

・・・それは、心の底では「付き合いたくない」と思っている人を、友達として気を遣っていた、ということでした。

このことに気づいた時には、「なんて自分に失礼なことをし続けていたんだ!」と愕然としました。

これまでずっと友達だと思って、相手に気を遣い、真摯に接してきた人たちのうちの何人かは、常に私にマウントを取り、私を見下し、私をあざ笑うような言動をとっている人たちだったのです。

私はそのことに心の深いところで「嫌だな」と思いつつも、「相手を悪く思うなんていけない、そういうふうに思う私がダメなんだ」と、無意識に抑圧していたようです。

こうして自分の心を見ないようにしているわけですから、自分の本心に気づくわけありません。

そして、そういう人たちと相対したとき、意識の上では「大切なお友達」と思いつつも、本心ではその人たちから逃れたくて、つい飲みすぎる、という行動をとっていたことに気づきました。

さらには、彼らと相対している時ではなくても、自分がお酒を飲む時に、私は彼らにされた嫌なことを無意識に思い出して、その辛さをお酒で麻痺させていたんだ、ということにも気づいたのです。

本当は、見下したような言動をとられるのは納得いかないですし、私をあざ笑うような言動は許せません。

そのことに気づいてから、嫌なことをしてくる相手には、直接抗議するようにしました。

そう、「そういうのやめてくれない?」と抗議したのです。

残念なことに、「わかったよ、あなたが嫌がることはしないよ」と言ってくれる人はほとんどおらず、大抵の人は「いちいちそんなくだらないことで指図するな!」と逆ギレしました。

そりゃそうですよね。

まあそもそもが、私を見下して失礼な態度をとり続けた人ですから、私の意見を尊重してくれるはずがないんです。

Motoko
相手がこういう反応を見せたら、そこでジ・エンドです。

もうこれ以上、その人と付き合う理由はありません。

もちろん大人なので「あなたとは絶交します、サヨナラ」と言ったりはしません。

こちらからは連絡をしない、誘われても無視するか断る、彼らが同席する会合には出席しない、という対応を取りました。

ちなみに、嫌な人と会わないようにすると、「会いたい人」にも会えなくなることがあったのですが、そこは「会いたい人」とは、別途会う機会を作ることで解決しました。

また、「付き合いたくない人」が仕事関係者だと、避けることは不可能ですから難しい問題です。

しかし、付き合いたくない仕事関係者とは、仕事「以外」の付き合いをゼロにしました。

例えば、雑談には応じないとか、ランチの誘いを断る、といったことです。

自分にはまだまだ隠れた闇があると思うからこそ

上記のように「本心では付き合いたくない人」を明確にして、自分の生活から取り除いてしまえば、問題飲酒はなくなるのではないか?とも思いました。

つまり、「本心では付き合いたくない人」と付き合うのをやめれば、「これからは正しいお酒の飲み方ができるのではないか?」とも考えました。

しかし、私は、自分に対して嫌なことをしてくる人を「そう思う自分のほうが悪いのだ」と自分の本心を捻じ曲げてでもかばったような人間です。

そんな私には、まだまだ自分で気づいていない闇があるに違いありません。

Motoko
そして、こうした私の中の闇は、お酒のように中毒性のあるものに触れたとたんに暴走して、「もっと!もっと!私の痛みを麻痺させて!」と止められなくなるに違いない、と確信したのです。

だから、決めました。

お酒はもう飲まない、と。

そして、自分でも気づいていない闇が今後迫ってきたら、辛くてもそれを受け止め、「現実的に対処」しようと誓いました。

まとめ!自分の感情を可視化することは有効!

自分の隠れた感情を可視化することはとても有効です。

私の場合は「言語化」ですが、絵が得意な人なら絵でもいいと思います。

また、プロのカウンセラーに頼ったりするのも有効でしょうね。

私は、これまでの人生の中で、何度か心理カウンセラーのお世話になったことがありますが、なかなか有意義な時間を過ごせたと思っています。

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